最終更新日:2010/11/01

パリダカのカミオン部門

 
一般のレースでは異色の存在であるカミオンも、補給物資のない砂漠を舞台とするパリダカでは重宝され、ワークスカーを後方から支援する重要な担い手としてその存在価値が必然的に高まっていった。そのような中、物資輸送目的だけでは飽き足らない参加者が、レースに特化したレーシングカミオンの開発に試行錯誤で取り組み、独自のチャレンジを続けていく。そもそも、低回転域から実用トルクを得られるディーゼルエンジンと大口径タイヤの組み合わせが可能となるカミオンは、砂丘や荒れ地での走破性が高く、もともとの耐久性の高さと相まって、パリダカの環境に適した車両といえる。ただ、タイムを競うレースの中で、唯一の弱点といえば高速巡航性能の低さであった。

史上最強のモンスターカミオン
ヤン・デルーイが駆ったダフ・ターボツインU
その弱点に驚くべき回答を提示したのが「レジェンド」のひとり、ヤン・デルーイである。彼が第10回大会に満を持して投入したダフ・ターボツインUは、アルミフレームに1,200馬力/4,700Nmのツインエンジンを搭載した史上最強のモンスターカミオンで、四輪部門の優勝争いを演じていたバタネンのプジョー405をトップスピードで抜き去る速さをみせた。彼はいくつかのステージでバタネン、カンクネンの2大エースを擁するワークスプジョーに次ぐ3番手のタイムを叩き出し、本気で四輪・カミオン部門の総合優勝を狙っていたのだ。
しかし、トンあたり115馬力という驚異的なパワーで引き寄せたのは優勝ではなく、チームメイトの悲劇的な死であった。アガデスへ向かう7日目のステージで、2号車が時速200キロを超えるスピードで砂漠のギャップにつかまり、10トンのマシンが宙を舞った。マシンが何回転したのかは誰も知るよしもないが、ナビゲーターの一人がシートごと車外に投げ出され、死亡した。競技の安全規則ではシートベルトはキャビン側に固定されてなければならず、通常であれば、シートベルトでシートに固定されたままの状態で乗員が車外に投げ出されることはない。彼はパリダカの高速化の犠牲者ともいえるが、安全規則を守っていれば彼の死は防げたかもしれない。事故の知らせを聞いたデルーイは「キースが死んだ…」と天を仰ぎ、レースからの撤退を表明した。

モータースポーツの安全とリスク
常に危険と隣り合わせといえるモータースポーツでは、乗員や役員、観客等の安全を確保するために、車両規定や競技規則が厳格に定められている。しかし、一度定められた規定内でもテクノロジーの進歩やチーム努力によって、より速く強いマシンが誕生する。モータースポーツが速さを競う競技である以上、ライバルとの激しい争いが続けば、安全とリスクのバランスが崩れていくのは避けられない。トップドライバー達は常に死と隣り合わせの瀬戸際でバトルを繰り広げており、重大事故はいつ起きてもおかしくないともいえる。よって、大会を運営する主催者は、たとえ重大事故が起きてしまった場合でも、人命の損失を未然に防ぐ安全確保を徹底しなければならない。それは冒険色の強いパリダカであっても例外ではない。
しかし、アマチュア中心であったものの、パリダカにおいても死亡事故が続いていた。さらに、ポルシェ、プジョー、三菱といったメーカーが仕立てたプロトタイプ車の登場により、走破スピードが飛躍的に向上し、次第にリスクが増していた。そのような中で起こってしまった、200キロを超すトップスピードでのダフの死亡事故。この事故はオーバースピードというリスクへの警告だけに留まらず、パリダカの車検制度の不備を露呈してしまった。この事故をきっかけとして、FIAはパリダカを頂点としたクロスカントリーラリーの車両規定や競技規則を制定し、独自のルールで争われていたパリダカもFIAのコントロールを強く受けることになる。このような背景により、翌89年の第11回大会から車両規定や競技規則がFIAのルールに統一されたが、カミオン部門に関してはルール制定に時間を要したため、同大会で競技は中止となった。

プロトタイプ車が廃止され、市販車無改造クラスへ
圧倒的なパワーで一時代を築いたペルリーニ
翌年の第12回大会から、カミオン部門はプロトタイプクラスが廃止となり、市販車無改造クラスに限定して再開される。市販車無改造クラスはFIAの公認(ホモロゲ−ション)を取得した生産車をベースに、ロールバーなどの安全装備が義務付けられるのに加え、エンジンの最高回転数の変更や噴射ポンプの調整、サスペンションスプリングのバネレート調整、ショックアブソーバーの追加など、限られた一部の改造しか認められていない。一見、非常に厳しいレギュレーションに感じるが、ベース車両の公認が得られる最低生産台数が15台と少なかったため、ベース車両をパリダカ仕様として15台生産し、FIAの公認を受けてしまえば、ほぼレース専用車で競技に参加することが可能という逃げ道もあった。
90年代前半のカミオン部門をリードしたのは、圧倒的なパワーの2サイクルディーゼルエンジンを搭載したイタリアのペルリーニ社。パリダカの経験豊かなスタッフにより、細部にわたり無駄のないレイアウトがなされたハイパワーマシンで90年大会から4連覇を達成した。この時期、ペルリーニは総合力において突出した強さをみせていたが、その陰で80年代後半から継続した挑戦を続け、地道に戦闘力を上げていたチェコのタトラ、参戦2年目となる91年大会で表彰台を獲得したロシアのカマズなど、現在のカミオン部門をリードするメーカーの活動も本格化していた。

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