最終更新日:2010/11/01

日野自動車のパリダカへの挑戦 【前編】

 
創立50周年イベントの一環としてスタートした日野自動車のパリダカへの挑戦。ひとつの目標に向かって社員の結束を図り、未知なる課題を一致団結して乗り越えていく。そのチャレンジスピリットはパリダカのそれと相通じるものであった。しかし、トラックでレースに参加するノウハウは皆無に等しく、若手社員中心で構成されたプロジェクトチームはまさにゼロからのスタートであった。

第1次ワークス参戦(91年〜92年)
ゼブラカラーに彩られた4台の日野レンジャー(92年)
各方面からのヒアリングの結果、参戦車両を中型トラック・レンジャーシリーズの四輪駆動モデルFTとしたものの、パリダカの走行条件や路面状況などのデーターは一切なく、手探りの中で開発がスタートした。プロジェクト発足当初に掲げられた「3年以内に上位完走」という目標を元に、まずは開発目標を耐久性一本に絞り込み、チュニジアでの走行テストを経て4台のレース車両を作り上げた。また、ドライバーにはル・マン24時間レースで優勝経験のあるJ-P・ジョッソー、オートバイレースの世界耐久選手権で活躍したJ-C・シュマラン、日野レンジャーの開発にも携わったJ-P・ライフなどの錚々たるメンバーを揃え、チーム体制を整えた。
1990年12月29日、第13回大会のスタート地点となったパリのヴァンセンヌ城に集結した109台ものカミオンの中に4台の日野レンジャーの姿があった。ゼブラカラーに彩られた「ミスターレンジャー」、「ミスレンジャー」2台を含む、4台の日野レンジャーを前にして、「エキップ・カミオン・HINO」の総監督を務めた鈴木孝専務(当時)は「日野のパイオニアスピリッツをもって、完走を目指す」と力強く語った。いよいよ未知なる闘いの幕が開かれた。
アフリカ上陸後、上々の滑り出しを見せた日野レンジャーだったが、序盤戦で3号車が穴に落ちるアクシデントが発生。さらに最大の難関といわれたテネレ砂漠の砂丘越えで、2号車のドライバー・シュマランがタイヤ交換作業中に負傷して戦線を離脱。他の車両もミッションやアクスルなどにトラブルが出始め、連日連夜メカニックによる徹夜の作業が続いた。やはり机上の計算では計りきれない過酷さが現場には存在した。しかし、これらの難関をチーム一丸となって乗り越え、ドライバーの負傷リタイヤを除いた3台が完走。1号車のジョッソー組がペルリーニ、カマズ、タトラの常連チームに次ぐ7位に入り、3号車10位、4号車14位という予想以上の好成績で日野自動車のパリダカ初チャレンジは幕を閉じる。
2年目となった第14回大会は初年度のデーターを踏まえ、耐久信頼性を大幅に向上した車両を投入。SSでワンツーフィニッシュを飾るなど前年以上の活躍をみせ、ペルリーニ、タトラに次ぐ4、5、6位を獲得。サポート役のプティ組も10位に入り、全車完走を果たした。

日野ワークスからプライベート参戦へ(93年〜95年)
「いよいよ3年目で表彰台獲得を」と息込んだプロジェクトチームの前に予想外の難敵が現れる。90年のイラクによるクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争をきっかけに石油価格が高騰。バブル景気に浮かれていた日本経済を直撃し、その影響は日野自動車にも及んでいた。いわゆるバブルが崩壊後の「失われた10年」を日本経済は歩み始めていたのだ。
日野自動車は社会情勢を考慮し、93年大会へのワークス参戦の中止を発表。しかし、前年に日野レンジャーのハンドルを握った菅原義正の強い働きかけにより、プライベートチーム「チーム子連れ狼・日野」への車両貸与という形で活動は継続された。この活動はワークス参戦時に比べ大幅に規模が縮小されたが、経験豊富な菅原の的確なアドバイスによってリーフスプリングのバネレートの変更や軽量化など、マイナーチェンジ的な改良が細部にわたり施され、徐々に戦闘力を増していった。そして参戦4年目となる94年大会でカミオン部門総合準優勝を獲得。続く95年大会も2年連続準優勝を果たし、「次こそは総合優勝へ」という気運が一気に高まった。

カミオン部門総合優勝へ。第2次ワークス参戦(96年〜97年)
史上初の表彰台独占を達成!(97年)
2年連続準優勝という結果に総合優勝への期待が高まり、日野自動車は再びラリー活動の規模を拡大。チーム名も「チームレンジャーHINO」と改め、96年大会に挑むことになった。参戦車両はニューモデルのライジングレンジャーをベースとし、搭載エンジンを従来の6.5リッターH06C-TIから、よりパワフルな8リッターJ08C-TIに変更した。レンジャーの強みは軽量コンパクトな車体を活かした砂丘等での運動性能の高さであったが、エンジンはライバルに比べ半分程度の排気量しかなく、砂の抵抗が多いフラットな路面ではライバルカミオンの後塵を拝していたのだ。エンジンの排気量アップは出力向上を求めていた現場の声に応えた形であった。また、更なる動力性能の向上を図るために、マシンレイアウト時から徹底した軽量化が進められ、リアボディもアルミタイプに変更された。その他、悪路走破性に重点をおいたサスペンションセッティングの見直しを行うなど、2台のニューマシンンを仕立て上げた。しかし、結果は周囲の期待に反し、1号車がカマズ、タトラ勢に次ぐ6位、2号車が11位と奮わなかった。
97年大会に向けては、前年の出場車両の反省点を踏まえ、更なる出力向上と悪路においてもエンジンの出力を効率よく路面に伝えるサスペンションの開発に重点がおかれた。この狙いが功を奏し、3台の日野レンジャーが連日にわたり上位を独占。カミオン部門1、2、3位独占という快挙を成し遂げた。同一メーカーによる表彰台独占はパリダカ史上初めての快挙であったが、この大会に常連組のカマズは参加しておらず、ライバルと呼べるレーシングカミオンの参加はタトラのみであった。

パリダカのルートコンディション
ここで、パリダカのコースコンディションについて触れておこう。一般的なパリダカのイメージは、砂に埋もれる車両が続出する高低差の激しい砂丘越えやトップスピードでマシンが駆け抜ける広大な砂の大地など、映像として見栄えの良いものが多い。しかし、こういったシチュエーションはほんの一部に過ぎない。もちろんその年のルート設定によって違いはあるが、デューンといわれる砂丘越えは全体の1割前後であり、500kmのSSすべてがデューン越えというルート設定は存在しない。「道なき道を行くパリダカ」のイメージを壊してしまうようだが、砂丘越えなど一般車が通ることのないラリー独自のルートは3割に満たず、あとの7割以上は現地で使われている生活道路の繋ぎ合わせとなる。但し、生活道路とは言っても地元のトラックが行き来するような道もあれば、途上国の医療活動などでごく稀に使われている道もある。さらに、かつてパリダカのルートとしてティエリー・サビーヌが切り拓いた道も現在のミシュランマップに道路として記載されている。
よって、ひと口に生活道路と言っても、一般の四輪駆動車でも時速100キロ以上で巡航できるフラットダートもあれば、相当な経験がなければ走ることさえできない砂地もある。ただ、一般の四輪駆動車では時速20〜30キロ程度でしか走ることのできない凸凹道をラリーマシンはその数倍のスピードで駆け抜ける。ラリー時における特殊性はその通過スピードといえる。
具体的なイメージでいえば「おっととっと。おっととっと」と言いながら、凸凹道で体が上がったり下がったりしている感じだ。その凸凹がなくなり、恐る恐るアクセルを開けてみる。また同じような凸凹があるかもしれないので、時速は40キロほどだ。ちょっと慣れて45キロ。突然、目の前に穴ぼこが見えて「おっと、危ない!」フルブレーキングでドッタンバッタン。ざっと、このような感じが続くとイメージしてもらえればと思う。もちろんラリー車のスピードは倍以上。場合によってはアクセルやブレーキコントロールのみでノンストップでの通過が可能だ。そしてこの例えで、スピードと共に感じてもらいたいのはその加減速の多さである。パリダカでは一日中、これが繰り返される場合もある。よって、負荷がかかる路面であっても瞬時に加速ができるエンジンパワーと凸凹路面で衝撃を吸収し推進力を前に伝えるサスペンションが求められる。

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