最終更新日:2010/11/01

日野自動車のパリダカへの挑戦 【後編】

 
第2次プライベート参戦(98年〜05年)
激闘を制し準優勝を獲得(05年)
98年大会以降、日野レンジャーの活動は「チームスガワラ」に引き継がれ、継続される。プライベート参戦ではワークス活動と異なり、大掛かりな車両開発は望めないものの、現場を知り尽くしたドライバー自らが焦点を絞って改良を加えるため、戦闘力向上に直接結びつく的確な改良が可能となる。ベース車両のポテンシャルが高ければ高いほど、細かなセッティングで車両そのものが持つ潜在能力が引き出され、レーシングマシンとしての熟成をみせる。97年車両はその素材として最良のマシンといえた。予算と労力をかけて取り組むワークス活動と地道なプライベート活動との組み合わせは、我々にとっては社会情勢に左右されたものではあったが、企業が取り組むモータースポーツ活動のひとつの形として再認識されてもよい。但し、そのバランスと活動の継続が肝心である。
この時期、車両へのモディファイはエンジンの推進力を如何に路面に伝えられるかという点に絞られ、主にサスペンションセッティングに費やされた。限られた予算の中ではパリダカも実戦テストの場であり、現場でも試行錯誤が繰り返された。その結果、ライバルに比べ非力なエンジンであってもサスペンションの良さを活かした走りで、日野、タトラ、カマズの三強時代の一角を形成し、上位入賞を続ける。大型のミッドシップカミオンに中型のフロントエンジンの日野レンジャーが真っ向勝負を挑む姿は「リトルモンスター」と賞賛された。
2002年、市販車とはほど遠いミッドシップカミオンを禁止するレギュレーションが施行されたが、14年ぶりに復帰したダフの参戦をきっかけに高速化が一気に進むことになる。04年大会時にベース車両のマイナーチェンジを受け、7年ぶりに新型車両・日野レンジャープロを投入したが、表彰台を獲得できず5位に終わる。翌05年大会には久しぶりに2台体制で参戦。同大会のカミオン部門のエントリー台数は69台に膨れあがり、熾烈な闘いが繰り広げられた。2台の日野レンジャーは20台以上となったモンスターカミオンを相手に総合準優勝、6位完走という結果を残し、その存在感を大いにアピールした。

「日野チームスガワラ」協業体制へ(06年〜)
BRICsの爆発的な経済成長に代表される世界的規模の好景気は、パリダカの参加台数へも影響を及ぼした。21世紀に入ってから急速に参加台数が増え始め、エントリーの受付後すぐに規定台数をオーバーしてしまうほどの人気ぶりは、明らかに異常事態と言えたが、主催者のプロモーション活動の成果も評価して良いだろう。カミオン部門も例外ではなく、ダフ、ジナフ、イベコ、マンといった欧州メーカーが最先端のワークス車両を投入し、参加台数も前述の通り70台ちかくにまで膨れあがった。こうした中で展開される熾烈なトップ争いにより、各メーカーのマシン性能は飛躍的に向上し、時速60キロ前後で推移していたカミオン部門優勝車の全競技区間でのアベレージスピードは、07年大会時には時速80キロちかくにまで跳ね上がった。
日野自動車は05年大会での好結果を受け、「日野チームスガワラ」として体制を強化し、チームスガワラとの協業体制でパリダカに挑むことになった。06年大会ではスタート前日の車検で、ホモロゲーションの不備から優勝候補の一角と目されていたダフの5台が失格となるが、大挙するモンスターカミオンの性能アップは著しく、日野レンジャーにとって厳しい闘いが続いた。多くの欧州メーカーが四輪ワークスチームに引けを取らない本格的な体制で挑み続ける中で、圧倒的な強さをみせつけたのは古豪・カマズ。この大会で02年から続く連勝記録を5に延ばすことになる。
30周年を迎え過去最高となる参加台数を集めた08年大会はテロ予告のため中止となり、09年大会はアフリカを離れ、南アメリカでの開催となった。ヨーロッパからダカールを経由した定期郵便飛行の終着点・ブエノスアイレス。サビーヌの思い描いていた壮大なパリダカストーリーは、彼の死後20年経ってようやく実現した。

より厳しさを増した南米ダカール(09年〜)
より厳しさを増した砂丘越え(10年)
サビーヌの想いがあったとはいえ、アフリカからの撤退を余儀なくされたパリダカは、多くの困難を抱えての再出発となった。「アフリカでなければパリダカではない」、「南米大会には魅力を感じられない」と言った声が多く聞かれる中、現ASO代表エチエンヌ・ラビーニュを中心とした強力な組織力で南米開催を実現させ、南米ダカールは熱狂的な南米の人々に温かく迎えられた。また、懸念されていた競技自体の難易度も、アフリカ大会を何倍も上回る過酷さで、特にアンデス山脈に寄り添う形で連なるアタカマ砂漠を中心とした砂丘エリアは、パリダカの熟練者であっても困難を極める難コースとなっている。
日野自動車は08年の大会中止を受け、南米大会に向け、エンジンをミッドシップ化した新型車両を開発。本格化したレーシングカミオンの開発競争に対し、08年に新設された改造車クラスで、南米ダカールに挑んだ。重心バランスが最適化された日野レンジャーはトップテンに食い込む活躍をみせたが、南米特有の重い砂に悩まされ、駆動系をはじめ多くのトラブルに見舞われ、過去ワーストとなる14位、26位という結果に終わった。
翌10年大会に向けては、駆動系や冷却系といった前年に悩まされたトラブルが徹底的に分析された結果、実績のあるフロントエンジン車に戻し、市販車クラスでのエントリーとなった。実績のあるコンポーネントに加え、サスペンションなどのファインチューニングが施された日野レンジャーは、並み居る強豪を相手に序盤から好位置につけ、2号車が総合7位、市販車クラス及び10リッター以下で優勝を果たした。

おわりに
「冒険の扉を開くのは君だ。 望むなら連れていこう」サビーヌが発したあまりにも有名なフレーズだ。人はなにかしらに取り組み、様々な困難を乗り越え、成長する。しかし、踏み出した先の困難は、常に未知であり、その連なりが道である。どんなに光り輝いた未来が見えていたとしても、いつの世も一寸先は闇である。だが、その闇の先には必ず光がある。それは歴史が証明している。 いま、時代は混沌としている。しかし、それを乗り越えるのは人であり、人の力である。製品やサービスを提供する企業の源も、言うまでもなく人である。我々がパリダカで培った様々なノウハウは技術的側面も大きいが、情熱を注ぎ込んだ人々の存在が最大の財産である。 開いた扉の先に見えた荒波に恐懼し、扉を閉めてしまっては、なにも始まらない。サビーヌの精神は希望の光と言える。

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